2014年3月17日月曜日

吐くか飲むか


器の大きさというのは

何かを注いでみなくとも

見て分かるし
触っても分かるものだ


この人器ちっちぇな。なんて
些細な事で思ってしまう僕の器の小ささにいつもギクリとするのです。





レタッチを真似したければすればいい。
そこから生まれてくるものがいかに下らないものか肌で感じるだけさ。

僕の写真は、僕が撮るから僕の写真。
僕がレタッチするから僕の写真になるんだ。

あまりにも簡単なその事に気づけるかどうかが貴方の写真のすべてを決めるよ。





もう興味がなくなったのだ。

今までに色々な出会いがあった。
その中には振り返れば必然だったのじゃないかと思うものがある。

出会いの必然性。

それを信じる事にした。
そう、もう興味がなくなった。





張り巡らされ
張り巡らす

蜘蛛の糸の様なそれに

今も昔も引っかかり
引っかけてきた

何も気にせず居られるのは
ライブハウスという固有名詞を持った
音楽を鳴らす為のあの場所だけだ

汚す奴は許さない、

2014年3月11日火曜日

あの日

あの日から3年が経ちましたね。


3年前の3月11日は
一体何が起きたのか分からなくて
遠い岐阜で他人事のようにニュースを見ていた。
夜中は東京で停電と余震に怖がる友人達とスカイプで会議通話しながら、お互い励まし合った。

東北の友人の訃報を聞いたのはその直後だったか前だったか。

僕はあの日二人の友人を亡くした。

正直に書くと、どこか他人事にしていたし自分に関係のない事だと思っていたと思う。
でも彼らの死は、僕の中で3.11を特別なものに変えた。



1年後の3.11
もう1年経ったのかと時間の早さに驚いた。
マスコミや著名人達のチャリティ活動の終息の早さにも同じくらいびっくりした。

この年の5月に仙台へ行ってきた。
被災地と呼ばれる場所を何か所か周った。
衝撃的だったし、本当に色んな事を考えた。

僕にとっての3.11は友人の死からもっと深く辛い事に変わった。
遅かったと思う。状況を飲み込むというか、心から感じたのはこの時だった。



2年後の3.11
1年前に見た光景が忘れられなくて
なんだかこの日何をしてていいのかわからなかった。
自分の無力感と友人の事を考えてた。

夜は、茜谷くんの弾き語りを聞きにいった。
茜谷くんの事が好きになったのはこの時だったと思う。



そして、3年目の今日。
昨日名古屋でミーティングをしていたら、気づいたら日をまたいでいた。
その瞬間なんだか苦しくなったけど、つまらない話をして誤魔化した。
今日になってTwitterをはじめSNSを観ていてやたらと苦しくなる。
3.11という文字に、言葉に悲しくてたまらなくなる。

3年目の今日、僕はやっと友人の死を受け入れられたような気がする。
涙が出る。


今夜は、また茜谷くんの弾き語りを聞きにいこうかと思っている。

2014年3月5日水曜日

お・ね・が・い♡

知っての通り

僕は写真を撮る人です。

撮る人と公言する以上撮ったものは観られるという事ですよね。


僕が写真を発表する時ってのは

今の自分の生き方と感覚で

これが好きなんだよね~

って感じで出してます。


いい写真
よくない写真


この定義って有るようで無くって
文字通り有無を言わせず衝撃を与えるような写真でない限り

それは観る人の如何によってどのようにでも変わるものです。

例えば僕の撮る個性的な写真は

他のカメラマンの撮った写真と一緒に並べた時に灰汁が強すぎて使いにくい。
アーティストイメージ的に合わない。

媒体やレーベル的には正しい意見だと思います。


それでも僕は自分のイメージに忠実に

これが好きなんだよねぇってテンションで写真を発表したい。


ただし、上の様に
アーティストを撮って
それがアーティストのプロモーションになりえるとすれば
求められるものを撮れる力というのも大事になってきますね。

だから僕は人の感想が聞きたいといつも思います。


これは好きだった
でもこれはわかんなかった


人の意見というのは取り込み方によって凄く力になるんです。

撮る側の当たり前の気持ちとして
撮ったら見せたい、見せたら感想が聞きたいのです。



と、ここまで書いて自分の文章力の無さに愕然としています。
何もわかんねぇw

僕は自分の写真がブレるなんてのは考えてもいないし
実際ブレないでしょう。

でも自分が撮った写真が客観的に良かったのか悪かったのか聞きたいです。

より研ぎ澄ます為にです。

だからこのブログを読んだ人は
是非
写真を観た感想を、僕との会話のキッカケにして頂けたらと思います。