2015年12月31日木曜日

語愛サル

良い写真が撮れるようになりたい。

その為にはカメラマンとしての成長が必要。

カメラマンとして成長する為には人として成長しなければならない。



すべては繋がっている。



自販機の前に落ちている空き缶を拾ってゴミ箱に捨てる。
その一つの動作が、例えば大きなフェスのオフィシャルカメラマンの仕事に繋がっている。



良い写真を撮れるカメラマン。否、
圧倒的な写真を撮れる写真家。になる為には



自分と対峙し見つめ直し、何を欲している人間なのかを理解する事。
必要なのは目の前の被写体を撮りたいという欲。
それ以外の欲との決別は本当に大切なことだと確信した。


余計な思い入れや親近感。
良い構図、良い瞬間を良い形で残そうと浮かんでくる発想それ自体。
機材や環境に対する言い訳や逃げる思考。
自己顕示欲と承認欲求。

などなどだ。



言うなれば"無"に近い状態で撮影に望む事ができれば僕自身の本当に見ているモノが赤裸々に写し出されてくるはず。
そうやって撮影された写真は、他の人達の中にはない圧倒的な価値観を持っているはずで、それを日常的に撮れる状態になれば、僕の目指すカメラマンに到達するのではないか?


そう考え出したのが今年の夏前。
2015年は、カメラマンとして、撮影者として、人間として、もう一つ扉を開けようとした年になった。



今年、京都大作戦、氣志團万博と2つのフェスのオフィシャルをやって、それはそれまでの僕にとっての大きな目標だったわけで、ついにそれが叶った。

しかし、嬉しさと裏腹に心は晴れず、ただただ良い写真を撮りたい。
と自分の撮る写真のつまらなさに嘆く毎日。

写真でお金を稼ぐ事や、自分の知名度を上げようとする事(売れる)、フェスなどのキャリアに繋がる撮影を求める気持ち。

そのどれもが良い写真を撮ることを邪魔をする。



くだらない欲などからは決別して、
人間対人間を常にどう生き抜くのかということの方がとっても大事だと気づきました。


僕の生きるスタンスが、そのまま写真に現れてくる。
そんな当たり前のことに心で気づけた年。


多くの人と出会い、笑い
このファインダーの中に捉えてきました。
すべては僕以外の人が存在してくれているから経験できていること。



目の前の人にありがとう。と言えるかどうか。
それが僕に良い写真を撮らせてくれることに繋がっている。


人を忘れず、人を感じ、人を想い
来年もひたすらにシャッターを切る。

2015年12月26日土曜日

経過を評価できる事が日本人の特性

考えるな感じろ。

感じるな考えろ。


なんて言葉は使いやすくてみんな使うし
なんとなく良いことを言っているような気になるけど


本当はこの2つって混在するものだよね。

感じているだけでは何も生まれないし
感じず考えるだけでは答えなんて出ない。
というか何について考えなきゃいけないかすらわからないと思う。


感じている事を考えられるからこそ、自分を理解できるし
そうやって考えている自分を感じれているからこそ自信を持って生きられる。


感じた事を言葉にするのにも考える事は必要だし
いまこうしてここに文字を打ち込めるのも感じている事について考えているから。

そしてそんな事を考えている自分を感じれているからこそ発信に繋がっている。



感じるとか考えるとか言葉を使いすぎてよくわからない文章になっているけど

何が言いたいのかと言うと、


簡潔な言葉やありふれた言葉で核心をついたような事を言った気になって終わるよりも

感じた事を考えて、自分の言葉で、長くなってもいいから伝えようとする事の方が大事だし

何よりその先にある”動く”という事の方が重要だという事。



誰にも伝わらないかもしれない

それでもやろう。どうにかして伝えたい。どうしたら伝わるか。


そんな風に考えられる人間のスタンスには「感じるな、考えろ」精神では到達できないと思う。
感じて、考えて、そして動く。それしかない。

2015年10月30日金曜日

輝く夕陽と薄暗い僕の部屋

ある種の決意と共に大海に漕ぎ出した以上、

それなりの結果や成功をこの手にしたいし

それがなければ何の為に?と思う部分もあるが


ただそれだけしか見えていないその辺りのクズと

僕が違った事が本当に今の希望なのです。


評価される事の優先順位を一番上ではなく

もっと下に位置づけられる人達を

青春時代より目の当たりにしてきた事実こそが

今の僕をこうさせているのだと信じている。


誰かのおんぶに抱っこで祭り上げられ、

引っ張り上げられ、引き摺り落とす。

そんな事にやっきになっている連中に僕を捉える事はできないと確信している。



人と違う感覚が求められる世界だと言うなら

僕には人と違ったセンスや才能なんてゆうものは皆無だけど

何を大事にするかという感覚だけは大衆の人とは違ったものが

この体に刻み込まれているのです


いつかの夜に感じた

あの悔しさや、あの人の姿勢、そんなものが僕の中では光輝いていて

あの頃と同じく今も尚、その後をただひたすらに追っている。




道は誰にも等しく平坦である。

上り坂や下り坂はあれど

その道は平等にどこかに繋がっているし

その上に立つ僕達に

高いも低いもないのだ。

少し高い所に登って人を見下したり

少し低い所から人を見上げる事には何の意味もない。

この道がどこに続くのか、ただそれだけを探求し

いま目の前の同じ平坦な道の上に立つ者こそが同志なのだ。


それこそが僕の中に存在するストリートイズム。




誰と戦うわけでもなく

誰かを助けるわけでもなく

誰とは自分でしかなく

自分の為に自分の道を

ただ歩く。


前も後ろも横も全部見ながら探っていくものだよね人生は。

2015年10月1日木曜日

哀しみや苦しみが僕

誰にも愛されないのはわかっているが

日々

年々

それは強くなっている


僕が人を遠ざけているのか

芯と芯で付き合える相手が僕にはいない。


上辺だけで

良い事を言ってみたり

悪い事を言ってみたり

一体いつまでそんな事を続けなくてはいけないのか


誰かに愛されている事を実感し

幸せだなぁと涙がこぼれるような出来事が

僕の人生に一度でもあるのだろうか。



一番身近な人達には信頼されず信用されず

甘えようにも寄りかかる所がない。


字の如くカメラにしがみついて

ステージにもたれ掛かるように写真を撮っている時

その時だけが全てを忘れ、気にせずにいられる。





死ぬ

なんて言葉を簡単には使えないが

カメラを持っていない時の僕は抜け殻のようで

どこを見て

何を考えているのか

自分でもよくわからなくなる時がある。

生きるってなんなんだろうか。

2015年7月17日金曜日

嫉敗

芸人の又吉さんが自身の執筆作で芥川賞を受賞したというニュースが流れていた

いつものようにリビングのソファで寝ていた僕は

TVの音で目を覚ます

朝に弱い僕はいつも苛立ちと共に目を覚ます

だったらソファなんかで寝ずにベットで寝ろよという話だが

もうきっとベットで寝る事はないだろう

あそこでは全くなにもリラックスする事ができない。


「35歳という年齢で、芥川賞か。」

これが今日起きて一番はじめに考えた事だ

こんな一日のスタートは良い事なんてなく

僕は今朝からずっとネガティブに支配されている

そこでブログでも書いて気晴らししようとしている。

これは逃げである。


僕は今年32歳。

35歳で芥川賞をとった又吉さんはその事実も素晴らしい事だが

芸人としての成功はもっと若い時に手にしている

そう思うと今の自分に一体何ができているのだろうと

そんな風に責める。

時間がない、と不安になる。



すでに成功している著名人と自分を同じ計りの上で比べるのは間違っているのかもしれない

僕はただの一般人なのだから

勝ち抜き生き残り選ばれてきた人達にはやはり特別な何かがあると言い聞かせる

それが普通の頭の人、所謂一般人だろう。

でも僕は世界中の著名人と同じ計りでもって自分を見てしまう

そちらの括りの中に入れるはずだと勘違いしている

極度の中二病者。


普段は心の奥にしまっておけるそんな馬鹿な自分も

朝一から無理矢理ひっぱりだされては制御できず

自己嫌悪し自責の念に苦しむ。



でもね

時間ってのはあるようで無いというのは本当の事だと思う

それを何に使うとしても

あっという間に過ぎ去ってもう二度と戻ってこないもの

僕がこの先写真を続けていって

写真集を5年に1度出せたとしても

生きている内にあと5,6冊しか出せないかも知れない。

命は僕を待ってくれないし

死はいつ僕の所にやってくるかわからない

だから出来る事を出来る時に

やれるだけの事をやろう。





いつもならそんな風にネガティブをポジティブに無理矢理変換するのだが

今朝はなんだか

このまま何もせずに死んでいくんだなぁと黒く深いものに負けてしまっている。

ある人が僕に言った

「そろそろ本気でちゃんとしないといけないから」

という言葉が心に深く突き刺さって抜けない。



台風よ、はやく去ってくれ。

2015年7月16日木曜日

宛ての無い我儘は騒音と共に掻き消される

人に何かを求めてしまう。


なぜだろう。

そうしないと決めていても

気づくと僕は誰かに何かを求めている


たしかに


欲しいものがある

得たい気持ちがある

でもそれが得られなかった時の

悔しさとも哀しさとも違う感情を

何度だって味わってきたから


もう何も求めず

ただただ

自分を信じ、やるべき事をやるだけだと

そう思っているのに。



そこに居たのに

そこに居なかった

僕が握る道具は

時間を残す物

技術や感性なんかよりも

そこに居る事の重要性を

僕は知っているつもりだ。


それでも

たとえそこに居たとしても

居なかったように時間は進んでいって

僕も僕の残した時間も

そこに居た意味も何もかもが

無くなった



自分を信じ、やるべき事をやるだけだと

そう思っただけなのに


僕は何かを期待していた。

2015年7月10日金曜日

象は時代遅れの生き物らしい

感じるってどうゆう事だろう。


人によって感じ方が違うってなんでなんだろう。

それは

その人の生きてきた環境、生きている環境、立場

そういったものが生み出す価値観が

何かを得た時に何かを想起させる事なんだろうか。



いつもと変わらない出来事が

いつもと違うものになる瞬間がある


何かを得た時に

違うワードが頭を駆け巡る事もある


そうやって変化していったり

自分自身が成長していくのを

僕は受動的に

そして肯定的に捉えてきた



そこに在る何かにぶつかった時

人は何かを感じるのだろうが

結局はそれは

その時の気分

心模様でどれだけでも変わってしまうと

そうゆう現場に何度でも出くわしてきた


それは人は心で“感じて”いるという

すごくストレートな答えなのかもしれない。

では心はどこにあるのだろうか

僕はずっと頭の中にあると思っていた

それならば心をコントロールする事もできるはずだし

何かにぶつかった時どう感じるか

ある程度選択できるのではないかと

そう思っていた



でも最近

自分で何かを感じる時

それをコントロールできない事が増え

僕の考えは決して正しくは無かった事を突きつけられている。


はてさて

心とは一体どこにあるのだろう?

そして感じるとはどうゆう事なのだろう。

考えは続く。






その牙を失っても尚、
生きようと本能にしがみつく象に対し
時代遅れの生き物だと一言で片づけられる人間。

僕は象にはなりたくないし、人間にもなりたくない。

2015年6月26日金曜日

SUMMER 愛

iPhoneやスマホのカメラが良すぎて

ライブカメラマンの生き死には危うくなってきている。

関係者の誰かがスマホで撮った写真が、すでに事を成すようになってきたのではないかと思う。

私たちがライブカメラマンと名乗る以上は

まず何よりもスマホに勝つことだ。


人の真似事や影響から抜け出せないうちはまずまずカメラマンですらないということ。

写真とは何か

省みるべきことは山積み。


頭とカメラのリンク。
シンクロ率400%をいつでも叩き出さなければ。

個でも孤でもいいが

支えがなくても立っていられる自分になりたい。

2015年4月14日火曜日

ハンバーガーの中身は煙草で埋まる。

前回の更新から

気づいたらこんなにも時間が経っていた。


日々に追われているという事にすれば

それはそれでいいのかもしれないが

自分を形づくるものを忘れてしまっては元も子もない。



最近の僕は

自分の力の無さを痛感する毎日だ

人から褒められ認められているようで

そこに僕の満足はなくて

本当の評価はどこで手に入るのだろうかと彷徨い

結果

自分には何もできず

何もできておらず

と自分を責め

明日を見る目が曇っていく。



それでもライブ撮影三昧の日々を変えるつもりはなく

もっとハードにフットワーク軽く動きたいとさえ思っている。



現実は足に絡まり

首を絞め

両手には重しが付いていく。


人であろうとすれば

僕のなりたいものになれるわけはなく

人外になるには

覚悟も勇気も足りない。


ふわふわとうつうつと生きている。


ライブの光は日々眩しくなり

撮る写真は変わってきている。

撮りたいものはすごいスピードで変わる。

自問自答の答えはいつも

撮る写真へと行き着く。



結局

僕の中にあるのは

音楽と

ライブと

それをどう撮るかという事だけ。


2015年、もう少しがんばる。

2015年2月26日木曜日

狸はキューッと鳴く

ライブハウスへ出掛けて

精一杯楽しんだ後

ゆっくりと家路に着く。

家までのおよそ1時間
色々な事を反芻して考えて

そしてどうしようもない不安と寂しさが襲ってくる

現実世界に引き戻される瞬間だ。



毎日できる限りの事をしているつもりでも

どこか逃げていて

どこか守りに入っている

自分の想像通り全力で生きているという実感は全く無く


「いつか」
という言葉を盾にする事も厳しい年齢になってきた。


日々色々な覚悟をしていかなければいけない。
この数年はある種の分かれ目なんだと思う。


全てをカメラに注ぎ込めない僕が
この先一体何を成すことができてどう生きるのか
自分自身が一番ハッキリと見ていなければいけない。



どうにもできないモヤモヤを抱えて家に着いた。

玄関の扉に鍵を差し込み一瞬止まる。

「嗚呼、今日が終わる」




そう思った瞬間、背中越しにキューッという鳴き声。

振り向くとよく太った一匹の狸、目が合う。
まっすぐに僕を見て彼はもう一度キューッと鳴きその場を去った。



僕は鍵を開け家に入る。

明日も頑張ろう。

2015年2月16日月曜日

空は青くて遠かった

きっと今日を忘れないと思う。


昨年末から今年に入って
知ってる方、や憧れていた方がたくさん亡くなった。

僕の中に
色んな人の死が積み重なって

なんだかどんよりと重たくなってきた時
シーナ&ザ・ロケッツのシーナさんが亡くなった。
それが一昨日。

一度もライブを観た事なかったけど大好きだった。
いつか観れるだろうと鷹を括っていた僕はただの大馬鹿者だ。



昨日はTheキャンプのワンマンでなんだか緊張と心の重さとを引きずってライブハウスへ行った。
ライブが終わって、どっしりとした疲れに纏わりつかれていた時
フロアではシナロケが掛かっていた。

緩んだ涙腺をこっそり抑えて
昨日を駆け抜けた。


そして今日、

SEBASTIAN Xの最後の音源のサンプルが送られてきた。

はやく聴きたかったけど
聴きたくなかった音源が

思いがけず届き少しの動揺があって
静かな所で一人で聴きたくて、仕事の昼休みに車を出した。

本屋の駐車場でゆっくりとCDを再生した。


一曲目が終わる前には
僕は完全に負けてしまっていて
涙が止まらなくなった。

声を出して泣いた。



僕は一生今日を忘れないと思う。

2015年1月29日木曜日

朝がくるまで、朝がくるまで

不謹慎かもしれないが

死んで

みんなが悲しんでくれるってすごく羨ましいな。



生きている時って

自分がどうやって生きているか

考えているつもりで考えきれていないもので

計画的に生きようったってそうはいかないのが人生で


人にどう思われているかが気になってしまうような人にとって

今の生き方が正解かどうか

生きているうちには判断がつかない。

(元々生き方に正解なんてないのだろうけど)


それでも生きている。ってのは自分でコントロールできるものではなくて

悩んでいたって生きていってしまう。



人に優しくしなきゃなとか。

仲間や友達を大切にしたいとか。

自分以外の誰かを愛して生きていきたいって思うけど

同じようにみんなから愛されているかなんてわからない。




この間

あるバンドのドラマーが亡くなった。

僕はちょうど1年くらい前に2度その人を撮影し

少しだけ会話をした事がある。

すごく物腰の柔らかい人だなって印象。

その人について僕が書ける事はそれくらいだけど

僕の周りには本当に愛されていた人なんだなぁと思う。


闘病中から県外のバンドマンがお見舞いにきたり

亡くなってからも日本中から哀しみの声が聞こえてくる。



生きている間はわからない自分自身の生き方ってのも

こうして亡くなったらわかるんだなぁと思った。

みんなが顔を見にきて、泣いてくれる。

それだけで彼がどんな人だったのかわかる。





自分がどんな風に生きていて

どんな風に見えているかなんてわからないけど

自分に正直に

人を愛せる自分でいたい。


いつしか僕の命が終わった時

泣いてくれる人がたくさんいたらいいな。


その時僕の人生、答え合わせができる気がする。


前を向いていくしかないね。

2015年1月1日木曜日

元旦から道路脇に横たわる狸

本当はモノクロの写真が好き。

ブレたりボケた写真が好き。

偶然を含んだ奇跡的な一枚。

そんな写真を良い写真と言いたいし、そんな風に残ったライブ写真が大好きです。

でも


僕の撮る写真は違う。

カラーだし

バチバチにピントを合わせて

構図もしっかり決めてトリミングもしない

自分の写真に求める偶然性はできる限り排除して

職人のように撮る。

シャッターを切る瞬間さえ

予測して

偶然の瞬間を残した事を鼻にかけたりもしたくない。



ライブカメラマンという肩書きがあると知り

そうなろうと決めた3年前。

それから色んなカメラマンに出会った。アマもプロもどちらも沢山。

ライブカメラマンは

偶然性に頼った写真を撮って評価される。

そんな風に思われたくない。

舐められたくないのです。


自分でライティングできるわけでもなく

撮影ポジションも限られ

移り変わる光と瞬間の中

最高の一枚を撮る。



偶然撮れたようなブレやボケの力を借りて

モノクロの異世界で誤魔化して

良い写真だなんて言わせたくないのです。


だからバチバチにピントを合わせ

カラフルに

まさに一瞬を切る様に残す。


そうして

“狙って撮ってる感”を出したい。

いや狙って撮っているんです。

ライブカメラマンもちゃんと技術をもったカメラマンだと

知らしめたい。



今までそんな気持ちでやってきました。

2015年。

僕の7年目が始まります。


これからも僕の意地を見ていてやってください。
宜しくお願いします。



青木カズロー
2015年元日